パターン・レコグニション

パターン・レコグニション

パターン・レコグニション

ずっと積んであったギブスンの最新長編。
これまでのギブスンの作品は近未来を描いたSFといって間違いはなかったけれど、今度の長編はSF作家が(というよりギブスンが)現在を書くとこうなるのか、というのを見せつけられました。同じように未来以外を描いた(らしい)作品としてディファレンス・エンジンがあるけど、これは未読。何年も前に苦労して中古で手に入れたあげく、途中で挫折してしまっています。次に読むつもり。読むのは楽しみだけど、無事最後まで読めるかどうか。なんせ難解かつぶ厚いのです。
で、こちらのパターン・レコグニションはどうかというと、難解さがかなり薄まっていました。理由の一つに、多視点での進行というそれまでのギブスン長編の特徴を捨ててしまったことがあるような気がしています。
ニューロマンサーは何度も呼んだけど、カウント・ゼロやモナリザ・オーヴァドライブを再読するのを躊躇する理由の一つにこの多視点進行があって、つまり私の頭では章を跨いで2、3章も前の登場人物の行動を次に登場したときに覚えていられないという。
その点、今回は主人公ケイス・ポラードのみを中心に、彼女の知らないことは読者も知らないという一人称視点で最後まで貫かれているのでストーリーを追い易かったです。多視点で最後に全キャラが一箇所に終結するこれまでのパターンも好きではあるんです。好きなんですが、読むのが大変で。
あと、今回は翻訳も分かり易かったと思います。どの長編か忘れたけど、なんか気分の悪くなる(というか下品な)単語を多用する癖がある翻訳者の訳した長編はあまり好きになれませんでした。原書でそう書いてあっても、日本語にしたときに違和感があったりして。
サノバビッチを娼婦の息子と直訳するのに似た感じとでも言えばいいでしょうか。
911テロに影響されてだいぶ加筆修正したとのことですが、アメリカ人(あれ?カナダ人だったっけ?)として確かに無視はできなかったのでしょう。あの事件が織り込まれているせいで、常にこれが現在の世界をベースに作られた物語だと強く意識することになり、話に登場する様々な街のディテールや小道具(こげパンやたれパンダが出てきたのは驚きました)をこれまでのギブスンの描いてきた未来世界のテイストに脳内で織り込んで行くという作業が現実感を伴って脳内で処理されていったような気がします。その点、SFじゃないんだけどやっぱりSF作家なのだなぁ、と実感。
いろいろ書きましたが、この本で一番の収穫はというと、読んでいる間中ずっとわくわくできた、という事に尽きます。フッテージの正体にも興味があったし、ケイスの父の失踪が関わっているのかいないのか、ドロテアの正体、デミアンの存在に伏線があるのかなど、最後に全てが収束してすっきり解決されることを期待しつつも、ケイスの父ウィンの言葉がその予定調和に釘をさす。全てが陰謀のような気がしても、実は偶然かもよ、と。そのへんのバランスがよくて、でも結局最後はすっきりと終わってくれました。とうとうフッテージの正体が明らかになる(それ自体あやふやに終わる可能性だって十分頭にあったわけで)シーンでケイスが号泣しましたが、突き放して見るとベタなシーンかもしれないけども、やっぱりいいシーンだなぁと感じました。
読み易くて、読後感もよく、これまでの延長のようでそうではない、あたらしいギブスンの方向を見せてくれたという点で、個人的にはとても印象に残る本でした。
帯に映画化決定と書いていましたが、確かに映画化し易いかもしれないけど、かなりのセンスが要ることでしょう。そもそも映画化なんて怪しいもんですが。
現在の話といいつつイスラムのイの字も登場しないのは、まだ泥沼化するまえに書かれたからかな。