奥本大三郎

博物学の巨人 アンリ・ファーブル (集英社新書)

博物学の巨人 アンリ・ファーブル (集英社新書)

昔ハマってたものを今のこの年齢で思い出して再び手に取るという行為が、楽しい反面不安でもあります。もっと歳を重ねたうえで行った方がいいような、得るものがかえって大きいような気がするから。でも、どうやら10年に1度の「本読みたい病」に最近かかっているようなので、あえてその不安は無視していろいろ読んでます。

ともあれこの本は「新書」です。
ちょっと話は逸れますが。
「さおだけ屋はなぜ潰れないのか」という新書が今本屋で平積みされてます。ご存知の方も多いと思いますが。最初、タイトルを見て「面白そうだなぁ」と感じたんですが、別の本屋で再び見かけたときに、新発売なので帯がついていて、そこに著者の「買ってくれ」的な満面の笑顔がでかでかと載っているのを見て、一気に萎えました。
多分そんな意図じゃなく、「若い先生の親しみやすい授業」を印象づけたいんだとは思うんだけど、少なくとも僕には買ってくれというメッセージしか届かなかった。あと、光文社新書はアラン・チャン、集英社新書原研哉が装丁をデザインしている非常に洗練されたカバーなのに(「さおだけ〜」は確か光文社)、なんだかオレンジのあの帯はぶち壊し感が否めません。それも萎えた原因のひとつ。この辺が上品な装丁にもかかわらず目だってナンボ、売れてナンボということを最優先に考えている証拠。本屋はそれでいいのかもしれないけど。
あの白い新書は平積みでたくさん並ぶと非常に綺麗なんですけどね。ジュンク堂とかに行けばそれが見られます。最近お気に入りの本屋。

話は戻って。
新書を読むようになったのはつい最近の事。いままで見向きもしなかったのだけど、本屋でたまたま新書の棚を眺めていたら思っていた以上にいろんなジャンルの本があって、興味が湧いた。で、目に止まった本のひとつがこの本でした。
ファーブル(子供向け)を読んだのは小学校高学年の頃だった気がします。殊勝なこころがけ(ませた、ともいう)で読み始めたところが意外にも面白く、ついその面白かったことを担任に報告してしまったということだけ覚えてます。

子供向けの本には世間の闇の部分はなかなか書かれていないわけで、たとえば子供の頃尊敬する人の筆頭だったエジソンなんかも、実は性格悪かったりと、そういうことを知ってしまうのはちょっと怖い。ファーブルも、最近トリビアの泉で「鳥がうるさいと撃ち殺したことがある」「へぇー」などと紹介されていたらしいです。
この本でもちょっとだけこのエピソードに触れられていて、著者はファーブル翻訳の第一人者なんだけども、かなり好意的な解釈をしています。まあ、そもそもファーブルは鳥撃ちが趣味だったんですね。事実は書くけど、それを取り巻く事実も大事。そういうことなんだろうか。そんな事を思うと、あのエピソードはトリビアにすらなっていないしょうもない事実のひとつに過ぎないですよね。「エジソンは石につまづいたことがある」と同じレベルだと思います。

ファーブルは自分で確かめたことしか書きません。なのに、それが当時の科学者にとって荒唐無稽に見えてしまうという不思議。逆にファーブルは自分の目で見たのですから、自信満々なわけで。
ファーブルも正しかった。ダーウィンも正しかった。でも、両者の間にある決定的な違い。
ダーウィンは進化論を断定できませんでした。進化を目撃することはできないから、当然なのだけど、ファーブルは進化論を信じない。なのに2人とも、教会から、当時の常識に染まった科学者から、敵視されてしまう。
過程はどうあれ、真実に近づけば近づくほど、迫害された時代だったんだなぁ、と。

まあそんな背景はともかく、「昆虫記」でどんな研究が語られていたかをおぼろげながら思い出しました。著者はそのファーブルの語り口、当時(今も)の論文の正反対をゆく文章を大いに誉めています。
これは完訳版の「昆虫記」を読まねば味わえません。結構謎解きっぽい部分も多いので、最近の僕のミステリーブームにもマッチしそうです。
ということで、次は昆虫記!と意気込んだところで、全10巻全部買ったら8000円という事実と、せっかくいろんな新書があるんだから、他の分野も読みたいという欲求に負けてちょっと保留という事にしておきたいと思います。

本を買いだめするとどれも読みたくなくなるのは万人共通の習性なんでしょうか。僕は最近自分がその習性をモロに持っていることに気が付きました。買いたくてうずうずしている本が何冊か。でも、ちょっとおあずけ状態です。